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現実逃避ほどはかどるエネルギーはない。ここ数日の自分のセンスは過敏すぎて気持ちが落ち着かない。なにをやったところで、結局音楽やら映像のことを考えてしまうし、どんな要素からも創作できる気がする。そういった表現に関しての意欲に満ちていて、なにかしていないと眠くなるか気持ちが高ぶるかなって、気持ちの安定感に欠けている。すごく気分が良いときもあれば気分がすぐれない、というかへそのあたりが気持ち悪くなるときがあって、今の自分がすごく不安定で、なにかに傾倒しやすく、気持ちの位置エネルギーのようなものが増大している感が常に感じられる。少しの衝動的なエネルギーですぐに落下して、まったく違う考え方の人間に変化してしまいそうな、そういうポテンシャルエネルギーの塊だ。ここ数日の俺は。
というのも、学会があと3週間ほどに迫っているというのに、研究が進んでいないことが原因だ。やらなければならないことが多すぎる。音楽だとか映像だとか考えているような余裕は一切ないし、朝から晩まで実験しても間に合わないようなスケジュールだというのに、これっぽっちのやる気もない。全くない。それどころか、研究室に顔を出すのが毎朝気が重いし、実験中にあれこれ口出しされることにいらだちを覚えていて、やる気どころか投げ出したい方向の気持ちが増大している。今投げ出せと誰かに言われれば、あっという間に辞めてしまいそうな自分の可能性が感じられる。
つい去年まで、大学院に行くかどうか真剣に考えていた自分が懐かしい。そして、随分と余計なことを考えていたと思う。考えていたからこそ、今の気持ちに至ったのかもしれないが、余計な気苦労だった。実際に研究員として日々実験に取り組み、同時に就職活動を経験したことで、研究と開発の違いが大きく見えてきて、一緒くたに考えて、研究こそ最先端の開発だと思っていたことが大きな勘違いであることがわかった。自分には研究は向いていない。僕は勉強が好きだ。良い成績をもらえればうれしい気持ちになるし、研究によってさらに楽しく勉強できると考えていた。去年までのこのことが、今になって馬鹿かと思うくらい、ここにきて僕の考え方は変化した。僕は勉強が好きだったわけじゃない。勉強することで、社会人になるための準備ができることが楽しかっただけだった。研究によってさらに深く勉強できることが、自分に向いていないとわかった今、苦痛と言えるくらい、日々の憂鬱さがつきまとっている。
そう思ってからは、なにかと憂鬱になることが多くなった。しかしながら、一概に閉鎖的な憂鬱ではなく、取り組む方向によってはやる気に満ちているように、好き嫌いがはっきりしている。好きなものと言えば音楽を聴くことで、映像のことを考えることだ。嫌いなものと言えば研究だ。研究に対しての投げ出したい気持ちの増大が凄まじ過ぎて、現実逃避における反作用から、好きな方向へのエネルギー、やる気が満ち溢れている。本当に投げ出したら、なにか開花させてしまいそうなくらい、反作用のエネルギーがすごく、「投げ出し」への魅力を感じてしまっている。実際には、今の自分はそんなことしないしできないだろうが、「もし」投げ出したらと思うと、気分が高ぶって気持ち良くなってくる。自分の好きなように寝たり起きたりして、好きな時に遊びに行けるような学生生活を送りたいわけではなく、社会人として働きたい。社会人として働きたい。
社会人として働きたいんだもう。研究が嫌だとか、そういう気持ちもあるが、今の感情をまとめて言うと社会人になりたい。なりたくて仕方がない。学生としての社会への準備期間は自分の中では満足した。満足したというのに、未だに大学生をやっている日々へのつまらなさ、勢い余って大学生から学者への道へと半歩入り込んだ道を誤まった感が今の自分への足かせになっていて、さらに学会という時間制限が設けられているせいで頑張りたくもない方向へ急かされてしまっていることで、自分の進んでいる道の到達点への不信感がすごい。
よく僕は人に言うが、「このあとすぐ働きに来て」と就職先企業に言われたならば、すぐさま行くだろう。なにも問題を考えず、満面の笑顔で着替え、モチベーションを無意識に最大へと高ぶらせて向かうだろう。他の学生との気合いの違いを見せつけるだろう。
学会を終えた来月下旬、僕はどういう気持ちでいるだろうか。この記事を自分で思い出して見たとき、どういう感情をもつだろうか。全く予想がつかない。
というのも、学会があと3週間ほどに迫っているというのに、研究が進んでいないことが原因だ。やらなければならないことが多すぎる。音楽だとか映像だとか考えているような余裕は一切ないし、朝から晩まで実験しても間に合わないようなスケジュールだというのに、これっぽっちのやる気もない。全くない。それどころか、研究室に顔を出すのが毎朝気が重いし、実験中にあれこれ口出しされることにいらだちを覚えていて、やる気どころか投げ出したい方向の気持ちが増大している。今投げ出せと誰かに言われれば、あっという間に辞めてしまいそうな自分の可能性が感じられる。
つい去年まで、大学院に行くかどうか真剣に考えていた自分が懐かしい。そして、随分と余計なことを考えていたと思う。考えていたからこそ、今の気持ちに至ったのかもしれないが、余計な気苦労だった。実際に研究員として日々実験に取り組み、同時に就職活動を経験したことで、研究と開発の違いが大きく見えてきて、一緒くたに考えて、研究こそ最先端の開発だと思っていたことが大きな勘違いであることがわかった。自分には研究は向いていない。僕は勉強が好きだ。良い成績をもらえればうれしい気持ちになるし、研究によってさらに楽しく勉強できると考えていた。去年までのこのことが、今になって馬鹿かと思うくらい、ここにきて僕の考え方は変化した。僕は勉強が好きだったわけじゃない。勉強することで、社会人になるための準備ができることが楽しかっただけだった。研究によってさらに深く勉強できることが、自分に向いていないとわかった今、苦痛と言えるくらい、日々の憂鬱さがつきまとっている。
そう思ってからは、なにかと憂鬱になることが多くなった。しかしながら、一概に閉鎖的な憂鬱ではなく、取り組む方向によってはやる気に満ちているように、好き嫌いがはっきりしている。好きなものと言えば音楽を聴くことで、映像のことを考えることだ。嫌いなものと言えば研究だ。研究に対しての投げ出したい気持ちの増大が凄まじ過ぎて、現実逃避における反作用から、好きな方向へのエネルギー、やる気が満ち溢れている。本当に投げ出したら、なにか開花させてしまいそうなくらい、反作用のエネルギーがすごく、「投げ出し」への魅力を感じてしまっている。実際には、今の自分はそんなことしないしできないだろうが、「もし」投げ出したらと思うと、気分が高ぶって気持ち良くなってくる。自分の好きなように寝たり起きたりして、好きな時に遊びに行けるような学生生活を送りたいわけではなく、社会人として働きたい。社会人として働きたい。
社会人として働きたいんだもう。研究が嫌だとか、そういう気持ちもあるが、今の感情をまとめて言うと社会人になりたい。なりたくて仕方がない。学生としての社会への準備期間は自分の中では満足した。満足したというのに、未だに大学生をやっている日々へのつまらなさ、勢い余って大学生から学者への道へと半歩入り込んだ道を誤まった感が今の自分への足かせになっていて、さらに学会という時間制限が設けられているせいで頑張りたくもない方向へ急かされてしまっていることで、自分の進んでいる道の到達点への不信感がすごい。
よく僕は人に言うが、「このあとすぐ働きに来て」と就職先企業に言われたならば、すぐさま行くだろう。なにも問題を考えず、満面の笑顔で着替え、モチベーションを無意識に最大へと高ぶらせて向かうだろう。他の学生との気合いの違いを見せつけるだろう。
学会を終えた来月下旬、僕はどういう気持ちでいるだろうか。この記事を自分で思い出して見たとき、どういう感情をもつだろうか。全く予想がつかない。
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